なぜ茶碗は区別するのに洋食器はしないのか?

1もし自分の茶碗をほかの家族が使ったらどう思うか。それが家族であっても何か嫌だよね。

でもカレー皿とかの洋食器は共用だよね?という文に出会った。たしかにそうだ。 茶碗には自分のもの!という意識があるなぁと、ちょっと考えることになった。

元の文は、図書室の本には書き込みしないでという、ごく当たり前の注意を促すページにある。

そのぺージは一橋大学大学院国際企業戦略研究科図書室のサイト内にあるが、 そのごく当たり前のモラルの説明が、ターゲットの知的レベルが高いからか妙にアカデミックなのも、何やら矛盾してて一つの見所ではあるけれど、それは取り敢えず置いといて茶碗について。

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「一般的な日本の家庭では、食事の時に各人の使う箸と茶碗が決まっています。夫婦二人きりの家庭でも、あるいは子どもがたくさんいる家庭でも、箸と茶碗は個人の物が決まっているのが普通です。 … 。

ところが、たとえばヨーロッパでは、こんなことは絶対にありません。ナイフにせよフォークにせよ皿にせよ、みな同じ物を使います。形も同じだし、色も同じです。 … 。

ところがさらによく観察してみますと、日本の家庭において個人の食器を決めているのは、いわゆる和食器だけです。洋食器、つまりカレーライスの皿やスープの皿については、欧米と同じで、個人ごとに特定していないことに気がつきます。 … 。

たとえばこういうケースを考えてみます。たまたま娘の前に父親の茶碗が置かれたとします。では娘は、そのままその茶碗でご飯を食べようとするでしょうか。まずしません。では仮に、娘に対してその親が、その茶碗で食べるように命令したとしたらどうでしょう。よほど従順な娘ででもないかぎり、その命令は拒否するでしょう。 その場面をちょっと思い浮かべてください。その理由は何でしょう。

どうして嫌なんだと親が尋ねたら、娘はどう答えるでしょう。 多分、こう答えるのではないですか。「汚ないから」。」

(p. 75-77) 井沢 元彦さんの『穢れと茶碗―日本人は、なぜ軍隊が嫌いか』から。

 

「汚ないから」。何か嫌なのは汚ないからか。 『穢れと茶碗―日本人は、なぜ軍隊が嫌いか』は残念ながら未読だけれど、タイトルから、きっと『穢れ(けがれ)』に繋がる話だろう。

穢れかぁ。自分の定義も曖昧なのでググってみるとWikipediaにもあった。

 

穢れとは、時間・空間・物体・身体・行為などが、理想ではない状態・性質になっていることを表す神道の宗教概念である。

 

神道の宗教概念だから洋食器では意識されてこなかったのか。日本で洋食器が使われ始めたとき、「これって茶碗みたいに区別しんの?」「形も模様も一緒だからできんだろ」「そっか~w」的な話にもなったんだろうか。

個々人の経験的には、幼い頃から習慣で自分の茶碗が割り当てられ、洋食器に関しては区別はなく、 その経験により、なんだか自分の物は他人に使ってほしくない。位の曖昧さで留まっていたが、 なぜそのような習慣なのか。という点で、少しだけ認識が深まった。

きっと洋食器でも自分の物って区別したら、同じように穢れを感じるだろうな。 一緒に洗ってるのに。おもしろいね。

 

 

 

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