タンポポ以来、伊丹十三という人に興味が湧き、「お葬式」~「マルタイの女」までを見ている。映画監督だったという事しか知らなかったが、調べるほど彼に興味が湧いてくる。
ウィキで調べれば分かるが、映画監督の前は俳優、エッセイスト、商業デザイナー、イラストレーター、CM作家、ドキュメンタリー映像作家という経歴で、さらにどの分野においても実績を残している。映画監督の伊丹万作が父。小学校から特別科学学級という超英才教育を受け、戦時中にも関わらず英語による授業だったようだ。
伊丹十三の死因
日本ーうつくしい明朝体を描く男とも呼ばれ、レタリングにおける美的感覚も一級。また、精神分析がテーマの「mon oncle(モノンクル)」という雑誌の編集長などもしていた。
映画監督としては「マルサの女」から始まる女シリーズで巨大な敵を相手にタブーに触れまくっており、「ミンボーの女」公開後にはヤクザに襲撃され全治三ヶ月の重傷。「ミンボーの女」はヤクザの脅しに屈しない為の庶民へのバイブルのような映画で、自分がヤクザだったら面白くないのは想像できる。
襲撃後「私はくじけない。映画で自由をつらぬく。」と宣言。
その後も「スーパーの女」でスーパーマーケットのタブーに触れ、「マルタイの女」で宗教法人のタブーに触れている。「マルサの女2」でも宗教法人の脱税をテーマにしており、神の名のもとに弱き人を利用する巨大宗教や、警察の手が及ばない政治家の犯罪などに対して容赦ない。
一連の映画を見ていると、根底に、善良で平等な何かを社会に還元しようとする正義感のような優しさを感じる。巨大な組織を相手に映画という表現で正義を貫こうとしているようだ。
そして1997年の突然の死。自殺に見せかけた他殺なのか。だとすれば、やはり人間はダークサイドの方が強いのか。
ものぐさ精神分析
そんな伊丹さんが44歳の時に、「自分の目の前の不透明な膜が弾けとんで、目の眩むような強い光が射しこむのを感じ始めた」と最大限に褒め称えた「ものぐさ精神分析」という本があることを知る。
いったい何が書いてあるんだと早速読んでみると、中に伊丹さんが解説を書いており、どの文章で衝撃を受けたのか、その場所を明確に示している。
それは「わたしの原点」という文章で、著者である岸田 秀さんが母親について語った箇所だ。
「わたしの原点」という文章は、著者がなぜ精神分析に興味をもったか?という告白になっており、「精神分析なんかに興味をもったということからたやすく推定できるように、わたしは神経症であった。」と始まる。
そうなのだ。きっと本書を手にとっている読者は、大なり小なり神経症なのだ。
著者には強迫観念症があり、様々な時に強迫観念が発生していたようだ。たとえば、今読んでいる本が2年前に発行された物だと気づくと、2年の間に本の情報が古くなり意味を成さなくなったという思いに縛られ読めなくなってしまうなど。
それらの神経症が、なぜ自分に起こるのか。それを解明するために精神分析の勉強を初め、遂にその答えに行き着いた。
それは母が自分に与えてくれていた無償の愛が、実は母が都合の良いように自分をコントロールする為に演じられたもので、自分が精神症で苦しもうが一切止まる事はない、強力な母のエゴだったという事に気づいたのだ。
著者が里帰りすると大変なごちそうを用意して迎えてくれる一方で、自分はお茶漬けで良いというような母親だったという。それだけを見るとなんとも優しい母親と思うが、実はそれも計算されており、母のエゴの為に演じられた無償の愛から漂う矛盾に、著者の心にズレが生じ始めた。
伊丹さんも近い境遇を味わっていたのだろうか。
「ものぐさ精神分析」は話し言葉で書かれており、非常に読みやすいのにナイフのように鋭く、近代日本を神経症と捉える章などはピッタリとつじつまがあっていて面白い。
伊丹十三を追う中で、30年前の名著「ものぐさ精神分析」に出会えて良かった。